supermarket_in _the_night


(facebookで友人限定で投稿した文章に加筆したものです)

仕事のひと段落待ってたら年越しちゃう、と思いおばあちゃんちにおしかける。今年もなんとか会えた。

大学生まで、おばあちゃんちはすごく狭いから行ってはダメ、と言われていた。生活保護で暮らしていると知ったのはいつの頃だったか。

まともに仕事をしない祖父だったらしく、その借金に苦しめられたという父。家族の構成員であることを理由に要請されたであろう支援を、拒絶した心情は理解できる気もする。

祖父母はずっと公営住宅に当たるのを待っていた。それは無理だろうと父は話していたように記憶するけども、ある年、引越しした。これで遊びに行ってもいいのかなと思ったのはすでに就職していた時だったかな。家族に関する記憶はどうしてこんなに時系列に並べられないのだろう。


私は大学を卒業して2年と少しの2012年7月に子供を産んだ。その年の夏と秋、実家から電車で2時間ほどの距離にある東京のマンションで、日中は息子と二人で過ごしていた。

11月のある日父親から「まあさん、実は、おじいちゃん先月、車に轢かれて死んだよ」と聞かされて、本当にびっくりした。

当時はまだ床に置かれたまま転がるしかできない、でも指をくわえることを覚えた息子に、その驚きを共有するわけにもいかず、ただ、そうだったのか、と思った。そして次に、ひ孫、会わせられなかったな、と思った。

その時の心境は思い出せない。でも、そんなに深い悲しみは感じなかったし、実をいうと今日までも感じたことはない。

父やその姉や、おばあちゃんを困らせてきた祖父。本当は、私は息子のお尻を拭いていたあの日もあの日もあの時も、もうこの世にはいなかったなんて。私には家族としての思い出はないけれど、それを持つ三人は、何を感じているんだろう。そんなことばかり気になった。


おばあちゃんはしばらく惚けていたらしい。でもそのあと、デイサービスでともだちがたくさんできて、楽しく暮らし始めた。

先日会った時も、私はともだちたくさんいるから、と何度も聞かせてくれた。何を話しているのか、何が楽しいのか、それを説明する語彙はおばあちゃんにはない。歳のせいだろうかとも考えるけれど、昔から、詳細に感情や出来事を説明してくれるようなことはなかった。人は、持っている言葉で、世界を切り分けて他人に見せることができる。おばあちゃんの持っている言葉はきっと少ないのだ。たぶん。

おばあちゃんに会いに行く前、電話をかけた。この日に遊びに行くよと伝えた。話していると、私の名前を忘れてしまうようだった。対面しても、しばらく話していると忘れてしまう。でも、家族の誰かだとは思っているようだった。今回は一度、自分の娘(私の父の姉でもある)と間違えられた。でも私にはそんなことはどうでもよくて、見た感じ健康に、そして楽しく暮らしているようだということが嬉しかった。


とても広い、日当たりの良いアパートに一人暮らし。インコは一羽、いるけれど、寂しくならないのだろうか。私は一人暮らしの経験がほとんどないに等しい。

特別人格者というわけではなく、どちらかというと家族に閉ざした世界で生きてきたのかと感じさせるような話しぶりのおばあちゃん。もしも私が一緒に暮らすようなことがあれば、自分のテンポを乱されるような思いをし、それにいらだったりするのだろうと夢想してみる。

そして夢想の先に問いを立てる。それでも、もしも一緒に暮らしたら私は幸せを感じるのだろうか。

そんな自問に一瞬肯定的な考えを持ったのは、テレビを見て笑う息子とそれを見てこの子はおとなしいねいい子だねと話すおばあちゃんの間、終わらない仕事を処理しようと必死にパソコンに向き合うのが、なんだか悪くない時間だったから。


次はいつ行けるかな。新幹線代、稼ぎます。