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最近はまっている漫画。きみを死なせないための物語(ストーリア)が面白い。



このごろKindleほっぽって紙の書籍に回帰しているわたしです…漫画はツタヤで借りちゃう。デバイスだとわからないけど、目に見えて読んでない分量(冊数)が見えるのはいいよね、でも気軽に読める漫画はKindleにどちゃっと入れてたりします。


▼キンドルはキンドルでお気に入りなんですよ
Kindleについて「電子書籍は目が疲れるから」って言ってた自分を謝ります

(ところで英語圏の人ってニコンのことナイコンっていうよね?キンドルはかいんどるとかになるのかな??)




物語の舞台は地球の上、宇宙に浮かぶ「コクーン」という乗り物のようなもの。日本、インド、アメリカ、フランスそれぞれの領土と思われるステーションがある(マジックナイトレイアースみたい、と思ったがこれ20代の後輩には通じないのだろうか、汗。こちらの場合、確かアメリカフランスはなくて、インド、中国だったけど)。

男性3人、女性1人が主人公。この世界では、他人との人間関係は「契約」で決まっている。第一パートナー。第二パートナー。第三パートナー。それと生殖パートナー。

第一パートナーは幼いころの友人。第二パートナーは身体的な接触が可能な恋人(キッシングパートナーと呼ぶので、接触はキスまでと思われる)。第三パートナーはその先。ここまでそれぞれ性別の組み合わせに制限はない。第三とは別で生殖パートナーも存在する。

作中の会話からは、勤務先友人やプライベート友人というステイタスも存在していることがわかる。それぞれ、双方の同意(契約)があって初めて関係を始めることができる。契約外の人間に話しかけたり、契約が許す以上の範囲の接触は不可の様子。

宇宙に浮かぶステーションは生活するための空間が狭いから、人間関係が安全で円滑に形成され保持されるよう、このルールで管理されている。

その他にも、主人公たちの特別な体質や過去の出来事、厳然と存在する社会身分など、巧みな描写で物語に引き込まれるが、自分が一貫して目を奪われるのは作中に登場する厳密な「社会契約」の各種だ。最初は突拍子もない設定に見えたそれが、実は自分もその設定の中で生きているのだと、ある時ふと気づいたのだった。



いま日本で契約できる人間関係といえば婚姻関係。第二、第三、生殖の3つの関係はここに集約されている。場合によっては第一パートナーみたいな幼い頃の感覚を共有できる親しさも包含している人もいるだろう。

わたしは事実婚をしているので、法的な縛りが少ない状態に思われがちだ。浮気をしてもとがめられないのだろうというような誤解を受けることがある。実際には、書類を提出していないだけで夫婦関係と認められるし、不貞(浮気)は不貞となる。

だから、物語の中の言葉で言えば、わたしの第二、第三、生殖のパートナーは、婚姻届を出してはいないけれど夫である。

加えて、物語には出てこない契約だけれども、子供を育てるためのパートナーでもある。そして不安定なこの世の中で、経済的に生活を保障し合うパートナーでもある。これらのパートナーは再度見つけ出してその身分となる約束を交わすのが難しいように思う。ゆえに、一度結んだ約束を簡単には投げ出せない。


婚姻関係は、たぶん物語の世界と同じく、社会の秩序を守るための制度。ただし現実の日本では第二、第三、生殖のそれぞれの権利は別々にはなっていないし、その契約を交わした相手と子育てをするのが一般的だ。

つまりわたしが生きているのは、身体の独占的な使用権と子育てのメンバーはセットになっている、そんな世界だ。(第二、第三、生殖の権利が一人としか契約できない世界で、わたしに対するそれはパートナーに渡されたまま、行使されずにある。)

作品を読んで、人間関係を規則で縛るなんてこっけいだ、と反射的に思った。だけど、現実にいま、わたしは人間関係が契約で定められている世界に生きている。ちなみに、作品の中で、その契約を解除する手続きがどの程度煩雑なのかは、示されない。


作中のように友人関係まで契約でしばるというのは「やりすぎ」にも感じたけれど、よくよく考えてみれば、書類は出さないまでも婚姻関係という社会契約を結んでいる自分に、それをいぶかしがる道理はなさそうでもある。友人と配偶者が異なる理由はなんだろう?どちらも同じ人間なのに。感情に基づいてはじまる人間関係を、規則で縛り付けるなんて。

物語の登場人物たちは契約で縛られる人間関係に葛藤するような様子は多くは見られない。 監視されているからという理由もありそうだ。

少なくとも監視のないこの現実世界で、契約をなげだして人間関係を結ぶことは可能なはずなのに、それを信じられないような心持ちがするのはなんでだろう。事実婚を含めた婚姻関係を拒絶して、人は人とどうやってパートナーになれるのだろう。

とどのつまり、他人が他人である限り、相手の行動を制限できるかどうかは不確定だ。それならば、自分の重要なものを与える人間に対して、契約に基づく人間関係を形成するのは合理的という結論になる。契約のない人間関係はいつ崩れても仕方のないものになってしまい、よりかかるにはあまりに頼りない。

現実においてはゆいいつしばれる配偶者と呼ばれるパートナー。自由が好きなふりをして、不自由な契約関係を選んだわたしは、相手の自由を奪って何を手に入れたかったんだろう。