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週末は写真整理をして過ごした。

スマホで撮った写真はデータ保存するだけでなくて、印刷してアルバムに入れて、リビングの本棚にしまってある。息子のたちゅごんは写真を見てこのときああだったこうだった言うのが好きだし、わたしも時々見返して、今はもう会えないサイズのたちゅごんを見て浮かび上がる感情を楽しむ。共有している体験とか思い出があるから、家族は大切だと思う。

ちなみに使っているアルバムはこれ→ 再生紙・クラフト表紙アルバム(無印良品)

PCの中のデータも確認していてふと、昔の自分ってどんなだったっけ、と気になって表示してみる。出産育児ののち社会人復帰した翌年の正月の自分は、まったく染めていない黒い髪、アイラインもひかずリップも載せないメイクで、中性的な顔立ちをしていた。友人宅、男友達のとなりでピースをしている30歳の自分は、なんだかおとなしそうな人間に見えた。

その半年後の自分は、髪を茶色くして歯を見せてまぶしそうに笑っていた(実際、屋外なのでまぶしかったはず)半年前より、世の中のあれこれと仲良くなったみたいだった。そこここにあふれている物事とどう付き合ったらいいのか覚えてきたようだった。

そのどちらの自分も自分なのは確かなのに、でも自分ではないみたいだった。実際、仕事・育児・人間関係に対する考え方は変わっていると思う。そういうのがこんなに顔に出るものなのかと、少し面白く感じた。



仕事。会社員であることに固執しなくなった。「中国について伝えること」に自信がないながらも取り組むようになった。それに、報酬をいただいて書いているものがある以上、自信がないなんて言っている場合ではないということに、やっと思い至ったような気がする。

育児は、自分ひとりでやるのは本当に諦めようと決めた。そう考えてもまだ行動に移せないところがここ一年ほどあったけれど、家族を置いて一人で海外に行くことを繰り返して、やっと慣れたように思う。息子と離れている間、正直なところ一回も彼を恋しくなったりしないのは、わたしには息子以外に一緒に時を過ごしたいと思う友人がたくさんいるからだろうと思う。(それはわたしの息子に対する愛の絶対量とは関係ないと思う)

人間関係。時々に距離の縮まるコミュニティと、距離がひらいてしまうコミュニティが生じるという現実に、慣れてきたように思う。過去のある日には心から理解しあえたと感じた友人だったはずなのに、今はまるで共通言語を失ったかのように感じてしまう。いやむしろ、それは失われたんだと信じてすらいる。

でもきっと人間関係というのはそういうものなので、死ぬまでお付き合いするのは自分以外いないのだとも考える。時に親密さの濃度が下がってしまうのはたぶん家族であっても同じ。結婚しているから・自分の子供だからという要件は、自分が彼らから理解されて受け入れてもらえることを保証はしない。



先週はfacebookで、リアルでは交流の(ほとんど)ない方が、自分の性質を見定めるテストの結果を話題にしていた。数年前と現在の結果の違いに、驚き楽しんでいるようだった。

それを目にしたから、わたしもついつい昔の写真を眺めてしまったのかもしれない。

これだけいろんなものを内部で取り換えた今のわたしは、数年前の自分からしたら別人なはずなのに、イレモノだけは共有している。そんな気分にもなってくる。とっかえひっかえ変更のかかる自分の中で変わらないものはなんなのかしら。