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勝間和代さんが、同性のパートナーと同居していることを明かすニュースがあった。

同性を愛するということ 勝間和代のカミングアウト

このニュースを目にして、びっくりした。同性を愛するひとなのだということに、ではなく、こんなに精神的にも社会的にも強そうな人でも、それを公表するのは躊躇することなのだということに。

わたし自身は異性が恋愛対象なのだけど、好きになる相手の性別というのに制限を設けているつもりもないし、ましてや他人がどちらの性別のひとを好きになろうと関係ないと思う。自分がお付き合いをしたい相手である場合以外は。

自分が好きになった相手が、わたしの性別では恋愛対象としては見れないから、というシチュエーションが1回ならずあった。

ちょっと、いやかなり落ち込むわたしに、あなたが意識せず好きになるのが異性であるように、好きになる相手が女性ではないっていうことなんだから、まあ仕方ないよ。と言葉をかけてくれた友人がいた。

言っていることは今考えればひどくふつうなことなのに、当時新鮮に響いたのは、やっぱりその日までわたしの中で「自分とは違うカテゴリのひと」と線引きをしていた部分があったからなんだろう。でも恋愛相手の性別は関係なく、「誰か他人を好きになる」という一点でヘテロセクシュアルもホモセクシュアルも同じだとその時理解した。

それはもうだいぶ昔のことなのだけど。わたしはその日以来ずっと、誰かにお付き合いしている人がいるのか尋ねるときは必ず「恋人はいますか」と聞いている。



そして話は変わるのだけど、こんなウェブコラムを読んだ。

浜崎あゆみ揶揄するものまね披露したゆりやんレトリィバァが炎上、なぜファンは余裕を失っているか

ゆりやんレトリィバァという芸人が浜崎あゆみの物まねをして、それが全然似ていないというファンからの批判についての考察。

そんな批判が出てくること自体、裏返せば今の浜崎あゆみの立場の弱さを表しているのだ、という趣旨の文章だった。誰の手も届かないような美貌やあこがれとなる要素が、まだ彼女にあるのなら。ファンはその物まねを似ていないと鼻で笑って終われるのではないか、という主張だった。

どんな物まねなんだろうとユーチューブを見て、その元ネタも見て、実は浜崎あゆみのルックスが好きで歌詞に共感している(といっても詳しくは知らない)自分は、やっぱり、うーんちょっとな。と思った。

そのままYouTubeで昔の浜崎あゆみを見続けた。「これから何を仕掛けようと思いますか」「その影響力すごいですね」そういわれていらだってるみたいなハタチくらいの浜崎あゆみがいた。この人は本当にただ自分の思うことを表現して、それに共感した女性がついて行っていたんだなと思った。一時期のわたしの妹のように。


イライラしている様子が映されているものとは別の番組には、当時のヤマンバ?コギャル?が「浜崎あゆみの歌詞に共感するんです」と話す様子が収められていた。

高校生の頃ならわたし、この人たち変なカッコして何言ってんだろ、じゃあ孤独が癒されるようにたむろしてないで頭使って考えなよみたいな根も葉もないこと考えていたと思う。でも今思うのは、ヤマンバもさみしいんだってことだった。変なカッコだろうがなんだろうが、さみしいんだってことだった。

別に浜崎あゆみみたいな美貌がなくても、さみしいし大変なんだとわたしは知っていた。さみしいことを恥じる必要はないんだ、そう考えられる余裕が30代の自分に備わったんだなと気づいた。そしてそれはよいことだな、と考えたのだった。

浜崎あゆみはたまたま、美しかったから(あるいは美しくなろうと努力したから)そのさみしさとか生きていくつらさを代表して嘆く権利をもらったのだろう。でも同時に自分がやりたいことをやりたいようにしているだけなのに理解されないという体験を、他の誰かに伝える義務もしょったのかもしれない(だからレインボープライドのステージに出てきたのかも。)



男性が皆、楽をしているなんて思っていない。男性にしたって、上の年代と比べたら年収がどんどん下がっているのも知っている。

だけど経済的にも社会的にも女性はこんなにも生きづらいのかと、二人の境遇を思い、改めてそう感じた。経済的に完璧に自立している勝間和代さんですら、女性を愛しているということを言うだけの自由を手に入れられない。いわんやヤマンバをや。
 
どれくらいのひとがそうしているのかは知らない。だけど、お金がなくて彼氏の家にころがりこむ女性やキャバクラ勤めをする人を知っている。

わたしは幸か不幸か容姿は人並み(かそれ以下か知らないけど)であまりに自信がなかったから、就職するまで好きな人と付き合う機会すら手に入れられなかった。

でもわたしと正反対で美しい妹は、10代のころからお付き合いしていた男性の家に住み込んでいたように記憶している。きっと、息苦しい家族との空間を捨てたかったのだと思う。そうでなければわたしたち家族と同居してお付き合いを続けたっていいはずじゃないか。

できることならわたしも、捨てたかった。7年前結婚したときには、これで家族を脱出できた、と思った。まるで夫を利用したような表現になってしまうことに罪悪感や不安やばつの悪さがある。もちろん夫が大好きだったけれども。

だけど、これで今後は家族を頼って生きていかなくて済む。そう思ったのもまたまぎれもない事実なのだった。



桐野夏生の新作小説が出たらしい。『路上のX』という作品で、インタビューがYahooニュースに公開されていた。

根底にあるのは性差別です」――作家・桐野夏生が迫る、「JK」を取り巻く現代の闇

家出した3人の10代の少女の物語だそう。桐野さんはJKビジネスについて取材するなかでいくつかの注目すべき点を挙げていて、そこから見えてくるのは女性差別の視線だという。社会のゆがみから生じている現象なのに、女性個人の責任に帰そうとする、そういう内容の記事だった。

それは「居場所がない」ことは性別問わず起こりうる状況だけれど、「逃げ場を探して、結果危険な場所にたどりついてしまう」のは女性が多い、ということだ。逃げ場に求めるのは、お金や食事や寝る場所。わたしもそれが欲しかった。でも危ない目にはあいたくなくて、じりじりと自分を削りながら、居場所のない気持ちを抱きながら自宅にいた。逃げ出せずにいた(お金で困ってなくても搾取される現場に足を運んでしまう女性がいる、という記述もあった。)

浜崎あゆみが20年、代表して居場所がないつらさをうたっていても、まだ世界は変わっていないらしい。完璧な世界なんて出現しないのだから、自分が傷つかないすべを身に着けるしかないのかもしれない。歌手や誰かに慰められながら。