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2010年12月に、夫のはみの住んでいた3LDKの分譲マンションに自分の荷物を運び込んだ。

理由は、それまで勤めていた会社を辞めたくなったので辞めることにして、その福利厚生の一部であった寮からでなければいけなくなったから。

当時の手取りは約18万円くらいで(残業のほとんどない業務だった)、奨学金の返済を月2万ちょっとして手元に残るのは16万円。今考えれば、すきま風の吹くような住まいだったら、あるいは東京に出るのに少しの不便を我慢すれば、自活する道はあったはずだった。

でも大学時代と違ってお金があるということにめがくらんだわたしは、自分を飾り立てることに投資したくてしょうがなかった。一着1万円前後の服を買うことに酔いしれていたし、2万円前後の靴が買えることに喜びを見出していたし、自分の好きなコートを買うのに躊躇しなくていい生活を手放したくなかった。16万円じゃ、全然余裕がなかった。

それに、はみは当時すでに50歳で、人生に結婚という要素を取り入れたいと考えている人と結婚を考えないで一緒にいることは失礼なことだと思えた。個人的に結婚を拒絶する理由もなかったので一緒に住んでみて結婚を検討するのは良い考えに思えた。今考えると完全に、「自活する苦労を遠ざけるための言い訳」なのだけど。



当時築10年だったマンション。はみはずっと一人暮らしで、使用していたのは実質、寝室とリビング、水回りくらい。はみは掃除が得意なこともあってピカピカのおうちだった。

荷物を運び込んだあの日からまる7年。やっと、「自分の家」として扱っていいような、そんな気持ちになれている。

わたしが「自分の家」がないと感じていた理由と、「ここが自分の家」と思えた理由を今日は整理してみたいと思う。



田房栄子さんというエッセイスト、漫画家がいて、母親との不健全な関係が自分に及ぼしたネガティブな影響を、恨み節でない前向きな目線で紹介している。

彼女が紹介しているエピソードは全部共感できるんだけどその中で特に印象に残っているものがある。

田房さんが、食器棚を購入して部屋がすごく綺麗に片付いて感激するシーン。田房さんは「自分はずっと、きれいに整えられた空間に住む権利はないと思っていた、だから食器棚を買えなかった」と心境を告白する。それまで田房さんはカラーボックスを使って食器を整理していた。

そうだよねわかる、昔はわたしもそう思っていた。だってその家を手に入れるための金銭的な貢献は何もしていないから、そんな快適に暮らして良いわけがないもの。

その一方で、「理屈ではそうだけど、金銭的に力がない人にだって、家族が購入した家に住む権利があるはず。もちろんわたしも」そう考えていた。そう考えることができる自分は冷静で健全だ、そう思っていた。

でもそんな自負はじつは詭弁で、あるいは二枚舌で(経済的に自立していなくても人は肯定されるべきだよと他人にはよく伝えている。自分自身にはそれを許せないのに)、実はつい先日までわたしも「わたしはこの家にいて自由に振舞う権利はないんだ」と考えることをやめられなかった。



わたしはこのマンションで、自分の部屋なんてものを持ってはいけないと思っていた。いくらはみが、「ここをあなたの部屋にしたら?」と提案しても、かたくなに受け入れなかった。

実家では常に「経済的自立のない者に自由はない」というルールを言い聞かされてきた。両親に恵まれず、安心できる居住空間を確保できなかったわたしの父母の主張することとしては、納得感のあるものだった。

だから、実家に居てもいつも間借りをしているような、しかもそれに見合った対価を家主に支払っていないような、そんな心地がいつもしていた。(実家ではベッドやデスクや本棚は自分の好きなものを使ってはいたけれども。実態よりは、気持ちの問題だったのかもしれない。)

わたしがはみのマンションに持ち込んだ家財は、カラーボックス3つとテーブル、母がくれたクッションソファだけだった。今思い返してみれば、カラーボックスというアイテムに、田房さんのエピソードを重ねずにはいられない。寮がせまかったのもあって(6畳のワンルームだった。窓もあるし快適だったけれども)たんすも持たずに生きてきた。



当時の手取り16万で自分ひとりの生活をしていけるのか、そのあとはみと結婚したくなったとして引越し費用が捻出できるのか。その先の人生に希望が持てなかった。転職先での雇用条件はボーナスも退職金もなかった(それは今に至るまで同じだけども。)

転職を二回したけれども長く勤められなかった。子供を授かったのを理由に会社員という地位も手放してしまった。

この先収入が増える見込みがない、そんな自分が、夫のはみが倹約と節制を重ね手にした財産購入した快適な空間を、自分のものとして享受していいわけがないと、そう思っていた。



そんなわたしが、この冬はこの家に住んでもいいんだと心から納得できた。自分がここに住むことをやっと肯定できた。自分の部屋を整えて、家の各スペースを整理した。

まだ初回の給与も振り込まれていないが、今回の転職が影響している。勤め先を確保し、そこで自分の行うことに価値を見出してもらい、金銭を手にすることができるのだと信じられたことが理由だと思う。



わたしのこの立ち直り方では結局、給与収入と快適な住空間を確保する権利はリンクするというルールを肯定しているにすぎないのかもしれない。

でも世の中は非情だ。いくら女性が、産後が、経済的自立を確保しづらい構造になっていたとしても、その中であがいていくしかないのもまた確かだとわたしは思う。

家族がいようがいまいが経済的に自立することを肯定することと、経済的自立を確保できない人がいると肯定することは矛盾しないはずだ。

今の日本ではもがいてももがいても浮上できない(経済的な自立を手にできない)人がいるかもしれない、わたしだってこれからまた落ちていくのかもしれない。でもその時々に、不本意にも他人に依存することになっても、抵抗し続けること、抵抗していることを表明することが、不都合を変化させるために少しは役に立つはずだ。

わたしはそう信じているから、せめてこれからも文句を言い続けて対抗手段をなんでもいいからとり続けて、そういう自分のやり方をこうして発信していきたいと思う。