10年前留学した北京の大学には留学生寮があって、韓国、タイ、香港、日本、そのほかの国籍の学生が住んでいた。

コの字の形の上の部分にわたしは住んでいて、縦棒の上寄り、内側に位置する部屋に住んでいたのがえみちゃんだった。

えみちゃんは交換留学ではなく日本で修士課程を出てから国費で留学しているらしかった。長い髪と赤いセーターがとても素敵で、派手な化粧をしないでも美しいってことがあるんだと衝撃を受けた。

美しくあるとは、身に付ける贅肉を抑えメイク用品を使いこなすことだと信じていたけれど、それは思い込みだったかと自分の認識を再検査するほどのショックだった。えみちゃんは、ちっとも太っていなかったけれども。

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コの字の寮には水場が二箇所設置されていて、えみちゃんとは顔を洗ったりハミガキをするタイミングでよく顔を合わせてた。

ある晩も、えみちゃんと洗面台と洗濯機の間で話していた。話題は、その日見聞きしたこととか、日本が恋しいとか(なんてったってわたしは人生で3回目の出国で2週間以上実家を離れるのは初めてだった)、日本ではどんなだったかとか、だったと思う。

そのときえみちゃんが何気なく口にした、わたしのソウルメイトがね、という発言に、なんというか驚きを覚えた。

ソウルメイト、って、魂の片割れじゃん。生きて行く上で自分が大切にしているどんな価値観も共有できる人のことじゃん。そんな、わたしにとって架空の存在みたいな、でもあらまほしき、そんなすごい人を実在していると信じているえみちゃんは、どれだけすごい人なんだ、って。

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そんな風に感じながらもわたしは、自分の魂の片割れはこの世に存在すると信じていたし、この人がそうじゃないかっていう人がいた。当時も今も。

その人(ああ、三人称を使うのももどかしい、性別は関係ないのに)が自分にとって貴重な存在となったのが先か、あるいは魂の片割れという概念を知ったのが先か、もう思い出せないけれども。

だけど、その人がそういう概念に当てはまる人だと気づいた時には、その人はわたしの魂の片割れだと、あっさり信じていた。

それを確かめる勇気がなかったころ、わたしは魂の片割れの実存を心から肯定できなかった。いまも、相手がどう思っているかは知らないけれど、なんだかもうそれはどっちでもよい気がする。

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江國香織の小説を久しぶりに数十ページ、読んだ。そして、ああそうだこの人の影響だった、と思い出した。

作品の登場人物たちは、表面的な事実関係、ではなく、自分が信じられるもの感じることを対象として「魂の問題」と表現しとりあげ、それらを大切に生きているんだった。

印刷された文字がわたしに教えてくれたことはとてつもなく大きいのだということを、息子を連れて訪れたママトモの家、勝手に手に取った本の中に思い出し小さく感動した。

本は読了できなかったので、今読んでいるものを読み終えたら借りて読みきりたいな、と思う。