わたしはすぐに服が欲しくなる。

倫理学の先生が言っていた。

何か物が欲しいとき、それは物そのものが欲しいんではなくて、それを持った自分が欲しいんだ、と。

わたしはどうして服が欲しくなるのだろうか。

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高校は、私服で通える所を選んだ。自分の意思で選び取れる服装の1つなら、今では躊躇なくどんなスカートもえらぶ。むしろカラダを隠すようなデザインの服は嫌いだ。

そんなわたしは当時、スカートしか選択肢のない制服が嫌だった。思った以上に太い自分のウエストを意識するのも嫌だったから、併願校にはジャンパースカートの女子校を選んだ。

男性と揃えるためとズボンがある学校もあったかもしれないが、学校に行くのに学校指定のものを着なければいけないというルールも嫌だったから、そんな学校探さなかった。私服の学校に通えたのはとても幸運だった。

それでどれだけいい服を着ることができたのかという話だけど、結果3年間、5枚くらいしか気に入った服はなかった気がする。

お小遣いは食費で消えていたし(夜9時くらいまで部室にいたからお腹が空いた)、柏のマルイはおしゃれな人が行くところのようで気が引けた。時折ネット上で見かける、「服を買うために着ていく服がない」という意見は当時知らなかったが、高校2年生のわたしは心の底から同意するだろう。

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高校1年の時に仲良くなった女性4人がみんなおしゃれなのもさらにわたしのコンプレックスを増大させた。親と一緒に行くユニクロとイオンとライトオンが唯一服を買ってもらえる場所だったから、わたしのワードローブは1年間ほとんどそれらで埋め尽くされていた。あともう少しここがこうだったら、言語化できないままになんだか不満の残る衣類をいつも身にまとっていたきがする。

高島屋に入っているお店で服を購入しているらしい、髪の毛を美しくまとめてマスカラをつけているような同級生がうらやましかった。うわぐつの履きこなしさえも違って見えた。

年に一回か二回、親の気が向いて柏を一緒に歩くこともあった。マルイに入ったときもあった。サイズ表記を見てもどのサイズが自分に合うのかわからないようなお店もあったし、基本的にMサイズしかないようで自分には小さすぎるように感じていた。

ローリーズファームはLサイズを簡単に見つけ出せた。値段もギリギリ出せるくらいだと気付いた時はうれしかったが、少しでも安いものを買おうとして、どう着こなしたらいいのかわからないセール品をなけなしのお金で買ってしまったこともある。学校に着て行って、ああやっぱり変だったと落ち込んで、二、三度着て終わりになったスカートもあった。

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浪人時代に10キロくらい痩せて体重が50キロ台になり、服を着るのが楽しくなった。何を着ても似合う気がした。500円のキャミソールでも。店頭で試して、キツくて着られない服はほとんどなくなった。

その頃は車で10分ほどの西友に無印良品ができたので、母がそこでも服を買ってくれるようになった。以前よりおしゃれになれた気がした。

大学時代はバイトもしてクレジットカードも作ったから、もう少し自分の好みで服を買えるようになった。でも、5000円以上の服を購入するときは大いに悩んだ。

はやりすたりのないところに投資しようと思って、くつや下着に5桁の投資をするようになったのはこの頃だった。くつは、大学に入ってまた太り始めた自分にとってサイズが変わらないもので、そういう点でもちょうどよかった。

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自分にとって納得のいく自分が欲しくて、身に付けるものにたくさん投資していた、ように思う。アルバイト代なんてたかが知れてるけれども。

海外旅行には資金もできずなかなかいけなくて、でも留学中に中国国内の数カ所に出かけることができたのは本当にラッキーだった。

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倫理学の先生が言っていたことは本当で(まあそうだろうけど)、わたしは服が欲しいのではなくて、その服を着た自分が欲しかった。

自分を一番魅力的に(わたしにとっての「自分が魅力的な状態」というのは、寛容で、他人の批判を受け入れる賢さを備えているけれど、自分の信条を持っていること、と同意義だ)見せてくれるのは、自分の言動の他に身につけているもののはずだ、と信じていた。

身に付けるもので中身が変わるはずはないのに、わたしは今もそれを信じている。

もしかしたらわたしは、他人に対してもその軸を用いて判断しているということなのかも知れない。もちろん例外があることも理解しているし、他人に対して、わたしのやり方を実践して欲しいと思うことはあまりない。(家族に対しては押し付けがちだが、価値観が似ているので大きな抵抗は受けたことがない)。

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身に付けるもので中身は変わらないが、身に付けるものにはわたしの判断軸が投影されている。そこに現れる自分が、最大限よいものであることを目指して、わたしは服や靴やアクセサリーを身に付けている。

わたしの中身はみすぼらしくないのだ、他人から大切にされる価値があるのだと、もしかしたら思いたいのかもしれないし、言いたいのかもしれない。

それを表現するものがたくさんあればあるほど、安心するのかもしれない。そうしてわたしは、また服を買う。自分の選んだ場所で、自分の労働の対価で得た金銭で。