たちゅごん5歳、わたし32歳。会話のやりとりで、「ママが正しい」という構図にならないように気をつけている。

たちゅごんには繰り返し伝えて、理解して、体得して欲しいと思っていることがある。それは、コミュニケーションでの余白のつくり方と、余白への踏み込み方だ。

具体的には、わたしが何を言ったとしても、たちゅごんには彼が感じることや考えることを伝える権利があるということを理解して欲しいと思っている。相手がわたしでなくても誰でも。

そしてたちゅごんが感じることや考えることはその中身がなんであっても伝えていいということも、経験して覚えて欲しい。その伝えたいことが、わたしの言ったことを否定するものでもいい。

そして、同時にわたしも、たちゅごんの言い分を否定する権利があるということを覚えておいて欲しい。


■余白があって初めてコミュニケーションになる

自分が何かを伝えるとき、そこには伝える相手(メッセージを受け取るがわ)が否定する余白があるといいと思う。否定する、という表現がネガティブに過ぎるなら「口出しする」あるいは「踏み込む」と言ってもいいかもしれない。

人と向き合うとき、自分の考えを伝えてはいけないという暗黙のルールが出来上がってしまっては、コミュニケーションではなくなってしまう。それは、一方的な「通達」だ。

あるメッセージの受け取り手が、「これは嫌だ」「これは違う」と思っているにもかかわらず、そのメッセージを肯定する意見しか表現してはいけないと思ってしまったら、もうその関係は相互的ではなくなっていて、もしかしたら終わりにしてしまってもいいのかもしれない。

だからわたしは最後まで、「あなたと違うことをわたしは思っている」と言ってもらえる存在でいたい。できれば、わたしのまわりにいてわたしと話をしてくれるいろんな人に。