自分のお金だけで生きていけたらいいのに、ということはおそらく義務教育を受けている頃から思っていた。
わたしの育った家庭では、両親の意向に反することを希望するとき(それはコンタクトレンズの購入だったり肌が過分に見える衣類の購入だったりした)、両親からの不承諾の決定とともに展開される彼らのロジックは、この家に住んでいるうちはこちらの決定に従うように、というものだった。(しかし理由が何だかはわからないが、その決定は覆ることもあった)
ロジックは、たしかに一理ある。家族は共同体として規則を共有する必要がある。わたしも家族のメンバーが喫煙習慣を持っていたとき、それをやめてほしくて仕方なくて、家族の共有区域では禁煙であるという家族の規則をふりかざしてたたかったものだ。
我が家では、家庭内ルール決定の権利を持つかどうかは、家族のメンバーに対し金銭的にどれだけ貢献しているか、あるいは家庭内労働をどれだけ提供しているかという点が重要だった。学生であるわたしには決定権はないに等しかった。
いつしかわたしは、純粋な自分の希望(両親の同意を得られる範囲の内の選択肢ではなく、「全ての」選択肢から望ましいと自分自身が思えるもの)を選び取る権利を所有するには、自分だけの力で全ての生活をまかなっていること、そのために必要な設備投資も何もかも含めすべて、自分の力で手にいれることが前提だ、と考えるようになった。
だけど考えれば考えるほど、わたしが今手にしているものは0歳からの自分と地続きで、例えば今わたしが給与収入を得るために役立てている自分自身の思考力や語学能力は、父の稼いだお金で家に住み、母の作った料理を食べ、そういう生活があったからこそ進学できた学校に行って、手に入ったものなのだった。
就職したあとは会社の寮に入っていたが、その勤務先も辞めたのちは実家に戻る気にもなれず自分で賃貸を契約する気概もなく、今の夫の家に居候を始めた。夫が居候を認めてくれたことで生まれた金銭的、時間的、心理的余裕があるからこそ、わたしは出産できたし(出産、育児という体験を通して他人から頼られることが増えた)、働きたいと思える組織で勤務できるようになった(東京の住まい、という財産がなければ、子どもを保育園に通わせフルタイムで働く、という選択肢はわたしには選べなかった)。今仕事をしたり自分自身の主張を展開するために使っているこのパソコンですら夫が購入したものである。インターネット環境はいわずもがな(これがあったおかげでどれだけの機会を手に入れられただろう)。
つまりわたしは両親と夫の時間やお金を借りて使って、様々なものを手に入れている。そんな風にして手に入れた物理的、心理的な財産は、自分だけのものでないように感じることもある。
借りたことで自分は相手に何か負い目があるように感じるし、負い目のある人生は嫌だ、自分だけの財産が欲しい、と感じることも、よくある。
だけど、誰かの力を借りずに何かを成し遂げることはきっとできない。
すべてを自力で成し遂げられない不甲斐なさは、誰かからの助けの手を断ることではなく、自分が誰かに助けの手を差し伸べることで克服していくしかない。
つまり、
自力で(特に金銭的に)全部やりきれたらかっこよく感じるかもしれないけど、誰かに助けてもらったら、ありがとうって言って素直に受け止めればいいよ!
ってことです。
自戒を込めて。
おしまい!
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