子どもに何を教えたいか、と聞かれたらなんと答えるだろう。
他者を尊敬すること(人かそうじゃないかにかかわらず。そうして関わりあう関係は心地よいから)、
自分を大切にすること(それは当然のことだから)。
この二つくらいだろうか。

反対に、子どもに伝えたくないことなら、すぐに思いつく。

それは、
「あなたが母である(父である)わたしの価値観に合わないなら、家を出て行け」
ということだ。

表現が何であれ、根底にあるロジックがこれであることを言わないように気を付けている。
自分が言われてきて一番きつい思想だったからだ。
幸い、このルールを子どもに押し付けたい、と感じる機会は、今のところない。


子どもが経済的、心理的に独立することは、子育てのゴールだと思う。
だけど、前者は今の日本の経済状況からすると、難しいことでもある。

家を出て行けと言われたら、子どもは家を出て行くか(これはまだまし)、親の価値観に従うしかなくなってしまう。それは、心理的な独立を奪うという意味で、子育てに失敗したということだ。

人は、生まれる家を選べない。だから、家を選べずうちに来た息子には、この家、という制約がついてしまうことはあるだろうけど、好きなようにしてほしい。

努力のいかんにかかわらず、金銭を稼ぐ手段がなければ、空間的な意味で、人は基本は誰かのもつ家で生きて行くしかない。(日本は、生きているだけでお金がかかるシステムだ。)


わたしの経験上、その家から追い出されるかもしれないという不安は、当たり前だけどおだやかな気持ちをうばう。
それはわたしの人生にずっとつきまとっている。
自分の力だけで自分の空間を確保できないのなら、自分には生きて行く上で欠点があると、いまだに感じてしまうことがある。


子どもの行為を改めさせたいがために、取引として、居住する権利を引き合いに出す、という考えもあるだろう。
わたしも、家族として迷惑がかかるから、その居宅のルールを守れないのなら、それも当然、と思っている頃もあった。
つまり経済的に居宅を維持しルールを守っている側が守らない側を追い出すのは当然の権利と、思っていた。

だけど、それは対立する意見のまとめではなくて、保留でもなくて、おしつけの暴力だ。

歩みよること、歩み寄れなくても保留にすること。
その手続きは気持ちのいいものではないかもしれないけど、誰かの心を誰かのもののままとっておくためには、それを通過しなきゃならないんじゃなかろうか。

わたしはいっとき自分の心の独立をなくして、そうしなければ追い出されてしまうからと、従わなければいけないルールに従って、従わなければ追い出されるのが当然と考えるようになっていたのだった。
今ならそれは違うと思える。


息子には、どこまでも自由にいてほしい。
そういうことをたぶんわたしの両親も願っていたのだろうけど、そのやり方を間違えていた。

どこまでできるかどうやってできるのか、経験がないからわからないけど。
失敗から学んで、やっていくしかないのだ。時間は明日にしか進まないから。