中国語を習い始めたとき、初めは母音と子音を練習しながら、言われた単語を書き出したり、並べ替えの問題を解いたりした。

そのうち一応簡単な文なら、発音して表現できるようになって、その練習で先生と会話する、という機会があった。
あるいは、テキストを読み上げる機会が。

これで正しいのかしら、と気になるんだけど、先生はいちいち、合ってるよ、とか言わない。淡々と次の質問とかトピックにに移る。
あっ、合ってたのかな、と思う。

でも間違えると、違うと言って正しい言い方をする。それをわたしは真似る。

実際に、海外に行くとそうだった。
誰も、そうその言い方正しい、合ってる、なんて言わない。
ウンウンって頷くか、もしくは、次を促すか(時には無表情で)。それくらい。
通じないと、わからない、と言われる。


息子と一緒にいるとき、たびたび、そんな先生のやり方や留学に行ったばかりの頃の自分を思い出す。

言葉を覚えていく過程ももちろんそうなのだけども、息子の行為に。

たとえば、お茶をこぼしたとき。
ふきなさいとか着替えなさいとかコップを台所に持って行きなさいとか、いろいろ言えるんだけど、
まず、何する?何したら良いと思う?って聞く。

そうすると、たいてい、4歳の息子は、常識的な範囲で、○○する、と言って、勝手に行動している。
(まあ、たまには、常識からずれるんだけども、どうってことない)

わからないって言われたら教えるし、こぼしたものをそのままに片付けもしないのなら、それはわたしにとっては片付けてほしいものだと伝えるし、
綺麗にしてもらって嬉しいなんてことも伝えるから、完全に語学の練習と一緒、というわけではないんだけども。

でも、正解を教えない、たどり着いた正解に対してはだまってる、というところは、共通してるなと思う。
(子育てするなか、正解=保護者の望むこと、というふうにならないようには、注意を払っているのだが)

彼が動く前に、これが正しいからこうしなさいよと答えを示すことは、息子から、「人生を楽しむためのやり方」を 覚える機会をうばってしまう気がして、やりたくないなと思う。

いつだって人生は、何が正解か誰も教えてくれない。
相手の反応を見て、良いのか悪いのか、自分で考えてその判断を自分で信じることが、大事なんだ。

息子にいろんなことを強要したくはないけれど、これは覚えてもらっても悪くないかなと思えるルール。

大したメソッドじゃないけど、子どもの判断にゆだねる子育て、おもしろいことも多いので、ぜひ。