先日(久しぶりに!)観たDVD、福山雅治主演の、「そして父になる」。
子どもの小学校入学時に判明した、産院での取り違えに、人生をゆさぶられるふた家族、いや、主に福山雅治演じる野々宮家の方がダメージが大きい様子。

こどもを産んだことがある人、新生児から育てたことのある人なら同意してくれそうだけど、取り違えときいてまず思うのが、間違えるか?ということ。
新生児とはいえ、顔が違うし、泣き声にも特徴があるから、間違えるなんて自分なら考えられない。
だけど、物語の主人公(野々宮母)は、産後の状態が悪かった、わからなかった、という。そうだな、と納得。誰でも出産後すぐにベストな状態でこどもと向き合えるわけじゃないんだ。現実に取り違えが起きているそうだし、その個々のケースを調べたわけでないので、なんとも言えないけど。

育てた子どもより血の繋がったこどもを求める野々宮父(福山雅治)に違和感がたくさんだけど、実際にこういう考え方の人も少なくないのかな。
わたしだったら…全くの他人として生きるのも、それはそれでさみしいと感じるだろうな。そして、どこまでその人生に干渉していいのか、悩みそうだ。
まあ多分取り違えられてないので、杞憂だけど。

そして何よりも、想像の域を出ないけど、自分がいま育てている子どもを一番に考えるだろうなと思う。たちゅごんが仮にわたし以外の人間の中で育ち生まれてきた人間だとしても、これまでわたしと彼が過ごしてきた時間が、わたしと彼を家族にしているのだろうから。

そういう点で、野々宮の血のつながる子どもがいる家、斎木家の父(リリーフランキー)のせりふが、わたしにはまっすぐにつきささる。
子どもと一緒に過ごす時間の短い野々宮父に、もっと一緒にいたら、と言う斎木父。反論する野々宮父。そして彼に言う一言、時間だよ、と。
子どもに、人生の全てを捧げることが必要だとは思わない。だけど、一緒にいること、話をすること、ときに抱きしめること、を、これから先も大事にしたいな。

見習いたいのが斎木母(っていっても、映画だけどさ)。取り替えが完了し、斎木家での生活を始めることになった、これまで野々宮の子だった慶多。悲しみにくれて部屋の隅へ。そこに話しかける斎木母。
どうした?故障しちゃったかな?  ここかな?ここかな?
そう言ってくすぐって、背中向けてた子どもを自分に向けて、抱きしめる。
頭の中で繰り返し繰り返し上映してる、ワンシーン。

(話はズレるけど、真木よう子、NHKの江國香織原作ドラマに出てたときは、嫌だったなー。イメージと合わなくて。原作、思いわずらうことなく楽しく生きよ、なんだけど、長女役。もっとなんか、ゴージャスな感じ、おっぱい大きい感じの女優にやって欲しかった。ファッション誌でモデルできそうな痩せ型の彼女じゃなくて。江國ファンの評価はどうだったのかなあ。さん姉妹の父親が浮気相手との間に新しく子どもができるっていうのも、わけわからんかった。)


せっかくなのでオチは書かないでおくけど、やっぱり家族って最初から出来上がっていなくて、いろいろ経験して、家族になっていくんですね、ってありきたりな感想で、まとめちゃおうかな。
そう考えると、結婚も子どもが増えたあとの生活も、楽じゃないなあ。なんて、悲観的にすぎるか。
家族になる過程を楽しめるようになれたら、大人ってことかしら。うーん