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(ネタバレないです)

いちおうヒトヅマなので怒られそうだけど(だれに)、時折恋に落ちてしまうのだ。

でも33歳、それなりに社会的に承認されることを幾度も繰り返してきたので、承認欲求という情熱のすべてを恋愛に賭けるような無茶はもうする気持ちにはならない。

冷静に、自分の外から、自分の気持ちを観察することができるくらいには大人になったのです。ただ感情は感情で素直に感じ取るのが気持ち良い。それを理性で押さえつけるのもまた幼さの裏返しのようにも感じる。どうしてもぬぐえない特別感はいつになっても恋にはつきものなのだし、ただその扱い方を少しは心得たのだと自負する。

そんな「私オトナだし」っていう気持ちとびっくりするくらいの幸福感と、そして現実の生活というものをリアルな配合で詰め込んである小説です。



初めて電子書籍で購入した小説、平野啓一郎の「マチネの終わりに」。

平野啓一郎の作品は「日蝕」から読んでいるけども、途中から普段の思考と同じような、それでいて質量のある文体になった。そんなリズムで人の心(異性に惹かれたり、家族関係、人間関係に悩んだり)が描かれている作品に、わたしはすっかりとりこである。

今なお解決を見ないような社会問題も織り込まれているのも、引き込まれる理由の一つだ。「空白を満たしなさい」や「ドーン」も大好きで、繰り返し読んでいる。



「マチネの終わりに」は、ギター奏者の男性と通信社記者の女性の恋愛小説。冒頭の、ふたりが出会って互いに特別と感じあう場面が好き。人は、同じ国の中で同じ言語を話していても、実はその言語で共有できているものは限定的なのだとわたしは考えている。その中で「かなり誤差の少ない」言葉を使っている相手に出会ったシーン。そこで主人公の二人はその誤差さえも埋めていける可能性を互いに感じ取っている、と理解しあう。(そういう気持ちを具体的な場所としぐさと会話で表現できるのが小説家なんだなとしみじみ思う。)

この物語の美しいところうらやましいとことは、それが数年の時を経ても持続しているところかな。もう大人になってから面識を得た、違う国に住む相手とこころを通わせることのむずかしさにくじけながらも。

PCに打ち込んだ文字だけでは伝わらないことがある。大人になってしまったからこそ踏み込めないときもある。高校生だったら、もっと無邪気に自分の気持ちだけ伝えて、相手の受け止め方なんてこんなに何パターンも思いを巡らせてもんもんと過ごすこともなかっただろうに。あるいは中学生なら、もっと簡単に相手が自分を受け止めることを期待できたのかもしれない。



良くも悪くも三十代以降、感情にふりまわされず自由に動けることを知っている。だから時には、主人公たちの恋愛における行動に不思議な印象を抱くのかもしれない?

この小説がとてもとても好きなのだと伝えると、対面して「誤解だよ」って一言説明すれば済む話のように感じられてしまったよ、という感想を一人ならず伝えられた。

うーんだけどさ、やっぱり社会に自分の居場所をくれる仕事が大事、自分がその意義を強く信じられる仕事ならなおさら、そして相手にとってのそういうものも大事にしたい。

ラストの展開をどう受け止める人が多いのだろう。人生取り返しのつかないことはない、いつでも好きなものを選んでいい、そう考えている自分には完璧なハッピーエンドなんだけれど。