わたしは健康ファシストで、健康であることが人生においてかなり大切な要素だと思っている。

というのも、20代の頃は健康じゃなかったからだ。寝付けない、朝方起きてしまう不眠や、原因不明の吐き気など。それらはたぶんストレスが原因で、以後やはり気持ちの苦しい日が続くと同じ症状に襲われるので内科診察で対処するようになった。

この程度なら心療内科に行かずとも内科処方薬で対処できるのだと知ったのも20代のことだった。一方で薬に直してもらうこともできず、大きな不便も感じなかったので放置してきたのが「食べることへの恐怖」だ。

バナナと豆腐とキノコ、それと数種類の野菜を食べ続け、20歳で体重を50キロ前半まで落としてからは、何を食べたら太らず何を食べたら太るのかを常に考えて食べるものを決めていた。たぶん、30歳くらいまで。

■食べるもの信仰にとらわれないために

いつのまにか抜け落ちていたから、いつこの考えにとらわれらなくなったのかは思い出せない。だけどそれを完全に脱ぎ去ったと思えるいま、わたしも妹も、そして母自身もその呪縛に囚われていたのだなとはっきり感じる。そして、息子がそれにはまらないようにしてあげたいなと思う。まだ5歳だけども。

この「食べるもの信仰」は思った以上に布教されているらしい。糖質ダイエットがメディアにもよく取り上げられているからか、これを食べたら太る太らないという情報は、老若男女問わず実際の知り合いの口からもよく出てくる印象がある。

たちゅごんには、「何を食べて何を食べないほうがいいのか」よりも「いま何を食べたいのか」そう考えて食べるものを選ぶ人間になってほしい。

そして万が一、「食べて良いもの悪いもの」という軸で考えてしまったとしても、その時頭に浮かぶ選択肢は多いほうがいいなと思う。そのためにたちゅごんには食事を用意するための知識を持っていてほしいなと思う。

生活の食事のすべてを外食と中食で埋め尽くすことは、賢明ではないと思う。自分がいま何を食べたいのか、そして食べたいものがどうしたら手に入るのか、外食と中食から選ぶということになってしまっては、手に取れる選択肢すら限られてしまうと思うからだ。

選択肢を広めるために、たちゅごんには自宅で食事を用意する知識を与えたい。そう考えて実際に、わたしの料理を見せたり食事に関わるさまざまな必要事項を折に触れて経験してもらったりしている。(夫婦間の家事分担ではよく言われることだが、「食事」に関わる業務は調理だけでなく、今ある食材を効率よく使いきる計画、買い出し、下準備、加熱、配膳、片付け…とさまざまだ。)

■食事の準備は手間だけど、一部は内製化したほうがいい

わたしたちが食物を摂取するのは太らないためではなく、ましてややせるためでもないはずだ。「太るか太らないか」という視点ではなく「食べたいか食べたくないか」で食べるものを選べることは、健康だ。

食事を内製化することはかなり手間と時間がかかるけども、それはトイレに行ったり風呂に入ったり、寝たり洗濯したりすることと同じくらい、生活をすすめるうえでの大切な手順だと思う。

三食すべて完璧な栄養バランスで食事をとることが正しいと思っているわけではない。少しくらい栄養が欠けてもなんとか補われていくのだろうなと根拠のないイメージも持っている。ただ、たちゅごんには食べることに振り回されない人生を送ってほしい、そのための知恵と経験を手に入れる機会を与えていきたい。

子育てで目標にしていることはほとんどないのだけど、そう思う。