2回目の、多崎つくる。

LGBT研修に影響を受けたわけではないけれど、世の中は白か黒かきっぱりと分けられなくて、その間の曖昧な、定義のもらえない出来事にあふれていると思う。

人がその曖昧な色の出来事に対峙するとき、義務教育で習ったことでは太刀打ちできないと気づく。気づいて、そして前進したら血まみれになっちゃうとおもって、でもけがしながら進んでいくしかないのだと心に思う。それが大人になった時ではなかろうか。

この話で主人公の大学生時代、そしてそれ以降が物語の主要な部分を占めている理由は、その血まみれになる過程と結果がこの作品で描かれているからだと思う。


この作品は一度読んだことがある。2度目だから、どういう順番に誰のどんな歴史と展開が配置されているかうっすらと覚えている。先を急くことなく、出来事を主人公の心情と関連づけて味わうことができて、そういうのが複数回同じ小説を読む醍醐味だなと思う。

わたしは今30歳を超えて、子供を産んで育てて、不本意なことも自分の中で消化したり、ある時は消化できずに苦しんできたりした。一度目の読了の時にはわたしが通過してなかった、見てきたこと聞いてきたこと味わったことが今の自分に備わっているから、1度目には気づかなかったことに気づくし共感をすることもある。

主人公に共感できた分だけ、自分の中に浮いている「白でも黒でもない存在」を、自分の中のちょうどいい場所に片付けることができたように感じる。


主人公が最後幸せなのか不幸なのか(もしくは欲しかったものが手に入るのか入らないのか)は、この物語の中であまり大切ではないみたいだ。わたしは、それがはっきりしないからといって作品に何か大切なものが欠けているとは思わない。

手に入れたものと手に入らなかったもの、自分で選んだものとそうしなければならなかったもの。その境目を見定めるのは実はとても難しい、と思うから。

最後に主人公のつくるが望む「愛する人から選ばれること」という展開がもしも実現しなかったとして。望んだものが手に手に入らなかったからこそ、その空いた両手に入れられるものがあるのではないかと、わたしは思う。

幸せと不幸せは、下敷きの表と裏みたいに単純な位置関係ではないだろうから。


多くの(わたしの好きな)小説には、大きな救いが用意されているわけではない。(たまには用意されているけれど)

多くの場合、そこには平凡だったり非凡だったりする日常が連なっている。時折、そんなことあるわけないだろうと思う出来事も起こっている。でも実際にそういう「あるわけないだろう」ということが現実に起きることを、わたしはもう体験してしまった。たとえば、27歳で子供を産むとか。仕事が決まるとか。そういったことが。

そういう平凡な会話と人間関係に裏打ちされて、その通りだと思わせられる力学がよのなかには存在している。それを人は真実と呼ぶのだなと、小説を読んでいると感じる。

この作品でいえばたとえば、「人々の人生は人々に任せておけばいい。社会が不幸なのか不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ」とか、「自分で選んだものと、他者から突きつけられて受け入れるしかないもの。世界が変わるということ。」が人生には起きるんだ、ということ。

その真実を描くためには日常の延長にある会話と出来事が必要で、だから小説には結論だけはかけないのだと思う。

◾︎

主人公のつくるのように、20歳からの15年間を生きて、振り返った時、「もしかしたらこうだったのかも」という仮定を描くことのできる人間は、幸福な権利を有していると言えるのだろうと思った。そしてわたしもきっとそういう幸福な権利を持って生きている。

選びとらなかった人生があるのは、それよりも何かを強く信じて選んだ自分があるからで、その強く信じた思いは肯定されるべきだということも、主人公が作中の15年をかけて証明する真実だ。

作中で主人公は、人と人の心は調和だけで結びついているのではなく、むしろ傷と傷によって深く結びついているのだという。主人公は結婚すらしていないのに、相互の落胆を味わいながら夫と生きている自分を、重ねずにはいられなかった。