大学に入って初めて付き合った人がいつもわたしに説いていたことに、

他人を信じるというのは、裏切られることも含めて、相手の対応を全て受け入れるということだ

というのがあった。

わたしは彼の期待に応えられなくて、うまくいかなくなってしまったけど、想定の範囲内だったんだろうな、と思う。彼は傷ついてくれたようだった。

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時は12年経って。

先月、わたしに、アドラーの「嫌われる勇気」について教えてくれた男性がいた。

相手が自分を拒絶するような反応をすること、を恐れずに、自分がしたいと思うようにふるまえ、っていう話だったと思う。

そして、自分の発信に対して相手がどうふるまうか、それは相手が決めることだから干渉するな、とも。

わたしの理解不足や思いやり不足だったかもしれないけど、実際にそういう決断を、奇遇にも数日後、その彼とのコミュニケーションで経験することになった。

その時私たちは文字のやりとりをしていた。わたしの伝えたいようには、物事は伝わってないようだった。

彼はわたしからなにか(なんでもいいから)言葉をひきだしたいようだった。そんな風に見えた。何度も電話をかけてきてメッセージをたくさん送ってきた。

彼は、わたしが彼を傷つけようと行動していると思っているようだった。そんなつもりはないと答えた。だが、否定しても彼は視点を変える様子はなかったので、しばらくだまっていた。

彼は耐え切れなかったのか、全ての連絡経路を絶って、そのことを最後ショートメッセージで伝えてきた。それっきり、連絡を取ることはなくなった(と思う)。

彼は、わたしが裏切る(わたしは裏切る意思はなかったが)ことを含めて、わたしに期待するということは、できなかったのかもしれない。

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そしてその数日後、わたしは彼と同じようなことを他人に求めていたことに気付かされた。わたしがコントロールできる以上のものを、他人に求めてしまっているということを、本人から伝えられた。

わたしが要求しても、他人はそれを不当だと感じたら否定してくれるはずだ、とわたしは期待していた。わたしを尊重しながら、正してくれるだろうと、甘い夢を見ていた。それは夢だった。


期待が叶わないことは、相手のせいじゃない。同じように、他人がわたしに期待してくれるものを満たせないのも、きっとわたしのせいではない。

期待が満たされないと気づいたその一瞬、わたしはとても悲しいと感じるけれど、人を信じるのは無価値ではないと思う。12年前、他人がわたしを無条件に信じて尊重してくれたことは、期待に応えられなかったくせに、今もわたしの自信になっている。

相手がわたしの期待を裏切ることも含めて、これからも他人を信じてみようと思う。