恋は始まる時が一番楽しいのだろうか。自分の経験から言うと、5人目くらいまで、そんな感じ。そのあとは、ああまたこれか、そんな感じ。

始まる時のその感じ、あっこれはどこかで味わったことのあるものだと気づく、他人に認められる蜜の味。

だけどわたしは理解した。もしもその先に待っている、ある人間と深く関係を持っているという幸福感を得たいのなら、蜜の後には不安と孤独が待っている。「相手と分かり得ないものが、あるのかも」。それらと対峙する時間がやってくることを知っている。

◼︎

恋の最初、相手を知りたいと言う欲求とそれが満たされ行く感覚をいだく。相手に認められたいと思ってそれが満たされて行く体験。求めるものを与えられて、空腹が解消されて行くのにも似て、それもやっぱり幸福だ。

でもその次にやってくるのは、2人の間の表現方法の微調整、つまり、共通言語の樹立だったりする。

かみ合わないコミュニケーションのノイズに目を瞑るか、思いがけないデコボコに、自分や相手を修正しようとバツの悪い思いをすることになる。
(生き方の修正を快く受け入れる人間、というのは言語倒錯なのではないだろうか。生活に深く根を下ろした習慣を指摘するのもされるのも、重たい作業だ。)

◼︎

そこに待ち受けるものを乗り越える作業、その労力を割くに値する相手なのかどうか、人は恋をしながら見極めるのではなかろうか。わたしの場合その見極めのフェーズに進むのに半年くらいかかり、やっぱりいいやと判断がつくのは1年以内が多かった。
(この作業を乗り越えるとまた一段高みに人間関係が進歩する、のかもしれない。)

◼︎

不倫はなぜ非難されるのだろうか。

不倫とは、配偶者がいるのに、恋愛のようなものをするこで、とくに、恋愛初期の心地よさを追求するものとしてイメージされているのだと思う。

コミュニケーションのノイズを取り除くような面倒くささはそこには存在しない、ことになっている気がする。だから世間は、「そんな美味しいところばかり食べてけしからん!」って、そう言ってるのかなって、基本的に思っている。
(バレたときに傷つく人がいるから、という観点はここでは一旦置いておく。それは規範意識にかかわるもので別の論点になると思うから。)

◼︎

だけどわたしはここでいう、「美味しい部分」を味わうことが、何か批判を受けるべきこととは思えない。

美味しい部分だけ味わっているようでいて、それは実は通過儀礼でしかなくて、一番肯定されたいものは、そんなことでは満たされない。

◼︎

たくさんの恋をすることが幸せではないと、むかし誰かうたっていたのを覚えている。当時わからなかったその理由、あの頃の歌手と同じ歳になったいま、よくわかるような気がする。

人が手にしたい肯定なんてものは、恋の始まりの快楽をいくら集めても、手に入るものではないのだということ、いまはよく理解できるから。