親しくしてくださってる方ならご存知と思うが、わたしはセックスが好きだ。だけど、それを性欲が強いとまとめられるのはきらいだ。

だれかれかまわず、物理的な刺激を与え合う存在を求めているわけではない。たしかに性交がもたらす物理的な刺激は、わたしにとっては自分1人では得られないものなので、とても尊い。

だけどその刺激は「お互いに相手だけ」というルールがあるときにだけ、価値を持つ。そしてその「相手だけ」の定義が精緻に一致すればするほど、価値を増すと思っている。

ちなみにわたしのセックスの定義は裸で抱き合うこと、からである。

■セックスとは、認められること

親しくなって打ち解けられた相手がいた時に、丸ごとのわたしを肯定してほしいと思う。肯定はある時はセックスという形で表現されるものだと思っている。(子作りの手段として行う性交が、わたしは苦手だ。)

自分と特別に理解し合えると思える他人から、自分の外側の境目を直接になぞってもらうのは、心地よい。自分で自分をどこまで強く信じていようとも、あるいはいくら言葉で他人から支えられようとも、外側から物理的に他人に肯定されることの存在感は、依然として大きい。

ところでごくまれにポリアモニー(複数性愛)なのではないかと質問をもらうことがある。全ての感情を棚卸して考えてみれば全くその気配がないとは言い切れないけれども、やはり性的な関係は(疫学的に安全であっても)一対一であることにより価値が増すと感じられるので、わたしはモノガミーだ。

お互いに、ひとりにしか与えられないものとして共有するものだから、わたしにとってセックスはすばらしい。


■恋愛と性欲と社会保障

今の世の中は、そしてわたし自身も、セックスは結婚相手(文書の提出の有無に関わらず)との間で共有されるものだと思う。だから不倫や浮気がいけないものと認識される。

一度築いた夫婦関係は、社会的、文化的、心理的な要因で簡単に解消できない。子育てや財産が結婚相手としか共有することを国によって認められていないからという側面の影響も、大きいのではないだろうか(保育園の入園の可否は夫婦1組の年収と勤務時間に左右される)

簡単に解消できない一方で、一度夫婦関係を始めた相手と、セックスを共有する関係を保持し続けることは容易ではなさそうだと感じる。同一の定義で、セックスという行為を、特定の相手と存在させ続けることが至難の技だから。

「食事をとる」ということでさえ、こんなにも個人差のある出来事になっている世の中で、服を脱いだ先の価値観をすり合わせできる相手はやっぱり得がたいなと思うのである。