◼︎今日の中国語レッスン(たちゅごん)

昨夜もオンラインで8:30〜中国語レッスン。たちゅごんはがんばって講師のLeeと中国語でやりとりしていました。まだ、ほとんどおうむ返しですが。

今回は「まおず」帽子を、一緒に作りながら、「折」「紙」という単語を教えてもらいました。

ただ、たちゅごんは割に不器用で細かい作業は途中でやめるほう(私見)なので、普段の紙工作は折り目がずれてたり、途中で終わりにしてしまったようなのも多い。画面を見て、同じように作るのは無理だろうと早めに判断して(だってレッスンは30分)、わたしが横で「折!」と発音して聞かせながら、ほとんど作ってしまいました。

そのほか、「長」(ちゃん)、「短」(どぅあん)を使って、髪の毛の長さを表現していました。「○○の(髪の毛)」という表現が理解できたようで、先生と2人「リーの」「たちゅの」とやりとりしながら、途中「ママの…?」とダイニングソファに座るこちらに顔を向けて来ました。

「妈妈的头发(ママの髪の毛)」と返してあげたら嬉しそうに繰り返して発音していました。

そのあとは子音の「bpmf」とそれぞれを短母音と合わせた音の練習で、おしまい。


◼︎バイオリンレッスンとの比較

このレッスンはいつも、先生とのおしゃべり感覚だからかバイオリンよりも集中して30分取り組んでいるようにも見えます。

でもそれだけじゃなくて、もしかすると、中国語はバイオリンと違って、「これが完璧」というイメージなく向き合っているからずっと集中してるのかな、とふと思いました。

バイオリンの場合は、先生やコンサートの演奏や、わたしの音を聴いて(わたしの演奏はど素人ですが)、それと同じように弾けない…隣の弦に当たったり、弓の長さが足りなかったり、どのくらいの長さの音符をいくつ弾くのかわからなくなったり…ということに、フラストレーションを感じているようす。

一方で中国語は、わたしが話している姿は見たことはあるものの、どうやって発音するものかもわからない、聞き分けのできない単語ばかり。バイオリンの場合は、どう構えれば音が出るかはばっちり理解しているのに、それができない!となるけれども、中国語はどうやったらその音が出るのか、そもそも自分の出したい音はなになのか、まだそのイメージがないまま取り組んでいるようにも見える。

だからこそ、「思った通りに話せない!」というモヤモヤ感が少ないのかもしれない。そもそも、自分の中から引き出せる言葉のストックが少ないから、モヤモヤしようがない。

今覚えつつある単語も、自分から発音できるのは自分の名前と数字くらい。あ、あと登場人物の名前。
それと、言われれば、これだっけ、となるものがいくつか。右手、左手、手を挙げて、歩いて、止まって、立って、座って、など。

言葉がある程度溜まったら、なんだっけあれが言いたいのに!というフラストレーションにさいなまれるようになるのかもしれない。


◼︎言葉を手に入れていくということ

自分が中国語を学習した初期に経験した感覚をまだ覚えている。わたしはもう自分の日本語能力がかなり完成してから中国語を覚えたわけだけど、日本語と中国語を置き換えるのではなく、この音がこの事象・物を指すのだ、という風に単語を理解する体験があった。初めての時は鮮烈な印象を残して、そして2度目3度目と繰り返していくにつれて、なんだか思考が自由に広がっていくみたいな、そんな感覚を伴う体験が。

たちゅごんは近いうちに、もしかしたらすでに?わたしが初期に感じていたものを体験するかしているのではないかなと思っている。

それは、わたしがいま文章を書くのにも似ているのだけど。例えてみると、何も見えないただ水だけの海を泳いでいる感じ。でも本当はそこには魚も海藻も海底も海溝も実は酸素もある。

それに気づくには言葉が必要で、言葉があると、実は頭の中の海にはそこここに「何か」、気持ちとか思考とかりんごとかがあるのが見えてくる。この音が(文字が)これなのだと自分の中のイメージと結びつく瞬間。そんな体験がたちゅごんの中にこれからたくさん起きていくのではないかと思う。


言葉がなければ、自分がなにを考えているのかわからなくなってしまう。自分の考えていること感じていることに、適切な名前があったと驚くことは、32歳になってもまだまだある。言葉を自分の中に輸入するために、わたしは本を読んだり外国語を勉強したりするのかもしれない。