世の中は、小説の中の最短距離でないコミュニケーションに、美しさを感じる人と、そうでない人に別れると思う。

週末実家で読んだ「君の膵臓をたべたい」、は、情報の伝達だけでない、お互いがたわむれるための会話がたくさんあって、それが主人公と彼のクラスメイトとの間の親密性を作り上げていく過程になっているのだけど。

わたしの父は、オチの、つまり、何か教訓めいた、その二人が二人の関係性の結論としてたどりついた1つの共通認識を述べ合うシーンがこの作品の本質であると感じたようだ。

いやもしくはそういったたわむれを、フィクションであってものぞいてしまったことで感じてしまった照れ、隠しなのかもしれないが、ともかく、この作品の重要な箇所はラストの10数ページに集約されている、と言っていた。

まったく、小説の楽しみを、それなら半分以上放棄しているのではないか!と勿体無く感じるのだが、出来事に価値を感じるも感じないも自由なので、わたしは目をそらしてあいまいに笑うにとどめた。

解かれない誤解があるからこそ、味わわなくてよかった悔しさや悲しさや幸せがそこに確かに生まれたということを、そして最短距離で生きることができないもどかしさとその中で生きる方法を、教えてくれるのがわたしにとっての小説だ。