驚くことに、忘れていた。わたしは南Q太の作品がとてもとてもとても、好きだったということを。

予備校時代か大学に通っていた頃か、たまたまいったブックオフ(実家から自転車を10分ほどこいだところにある)で見つけて絵に惹かれて買ったのだったか。絵の雰囲気、会話の進み方、言葉で拾い上げる思考回路、全てに心地よさを感じた。古本屋で探して見つけては買って、あるいは書店で注文して、何度も何度も読んだ。

なのに、忘れていた。なんでだろう。
あの頃感じていた満たされない気持ちを、夫や友人が満たしてくれているから、だろうか。

この間、友人と会話していて、ある映画が好きなんだと言われ、最後に読んだのはもう何年も前の南Q太の作品が、数秒置いて頭の中で引っ張り出された。その映画作品は南Q太の漫画が原作だった。内容がどうしても思い出せなくて、翌日仕事から帰る電車の中、Amazonで探してKindle版を購入した。

運悪くモバイルワイファイの電池は切れていて、家に着くまでダウンロードできなくて、久しぶりに、何かを読むのを待ち切れない衝動を感じた。

帰宅すると夫と子供が待ってくれていたので、食事を済ませてから、ソファでやっと読むことができた。
当時の本よりずっと小さなiPhoneの画面だけど、当時と同じ自分の中のやるせない気持ちが、文字と絵で形を与えられていた。

自分では言葉にできないけれど確かにそこにあるものを閉じ込めてくれるから、本が好きだ。

数年ぶりにのぞいた南Q太の作品、その中に組み立てられている世界は、当時もいまも変わらずわたしにとっては現実だった。
受け入れてもらえないのに他人にこうであってほしいと願ってしまうこと、肯定されないという絶望、それでも息をして眠って食事をして人と会ってお金を稼いで過ぎていく時間、時折おとずれる求めている形での他人からの肯定。そういう現実が描かれているから、きっといつまでも南Q太の作品を好きなままなのかもしれない。